昨日から断続的に降っていた雨が昨晩未明から強く降り出した。
雨音を聴きながら、オランジェリー美術館の「睡蓮」を思い出していた。展示されている8枚の絵の中には水面に雨が降り注ぎ、波紋が出来る様子が描かれているものがある。殆どの絵が池の側ではなく、アトリエの中で描かれたという事で、その波紋のある絵も光の差し方が曖昧で(雨だから当たり前なのだけど)、輪郭も色も境界線が和らかく、すべてのものが融けてしまいそうな雰囲気だった。
遠くから見たらそんな印象を受けるのに、近くに寄って見ると下地が筆で投げ付けられた様に塗られていて、筆のタッチも描き殴った様に激しかった。対象物を見ながら描かず、心象のイメージをそのまま写し描いたからなのだろう。
睡蓮の部屋で暮らせるのなら、もう一生外に出なくてもいい、と思うくらい心酔していたので、私の睡蓮に対する印象はモネの絵そのものだった。
先日草津市にある水中公園の睡蓮を見た時、初めは美しく咲いている花と光を反射させている葉に見とれていたが、その内にそれらを支える茎の存在に気が付いた。花と葉、そしてその影という面にばかりに気を取られていたけれど、それらを結ぶ線の美しさがあるんだ、と発見してとても嬉しかった。
(下にプラスティックの鉢が写っているのが残念ですが)コンポジションが好きな写真である。
大鬼蓮はあったかなと思いながら、モネの絵に出て来そうな睡蓮の写真を載せてみた。
藤棚はないけれど、橋がエメラルドグリーンに塗装されていたら、かなり似てくる様な気がした。
余程の愛情が無ければあんな庭園を持ち、その絵を描き続ける事は出来ないだろう。私は植物に愛着を持てないし、とてもそんな事は出来そうにない。