lulu_batailleの日記

日々起こった事、思った事を記していきます。

第2日目

夜中雨音で何度か目を覚ました。ゆっくり休まないと明日の作業に差障ると思い、布団の中でじっとしていた。
朝5時半に起き、30分間iphoneでニュースを読んだ。他の2人は6時に起きた。身支度をしてから6時半に朝食を摂りに大広間へ行った。食事はバイキング形式で、班ごとに座っていたが、私の班の人はまだ誰もいなかった。一人で座っていた2号車のバスのリーダーの向かいに座らせてもらった。朝食も豪華でいろいろなものがあり、とてもおいしかった。食事の後ほうじ茶を飲んでほっこりとした気分になった。

部屋に戻り、荷作りをして6時50分にバスに乗り込み、7時ちょうどに出発した。途中天然記念物である厳美渓を通り、その見事さにみんな感嘆していた。近くには世界遺産に登録された中尊寺があったりして良い観光地なのだが、原発事故の影響で、今は災害支援のボランティアグループと行方不明者捜索をしている警察以外は殆ど宿泊客がいないそうだ。

2時間強バスに乗り、ようやく気仙沼市へ入った。人通りは少ないが普通の町並みが暫く続いていた。2号車のリーダーがマイクを取り、もうすぐ気仙沼港に着く、というアナウンスをしてから簡単に行程を説明し始めた。そうしてある時、「この角を曲がったら風景が変わります。」と言われた。窓の外を見ると、テレビで観た町がそこにあった。建物の3階以上は普通なのだけど、1、2階は窓もドアもなかった。中には壁すらなかったりする建物もあった。どこも空っぽでまるで廃墟だった。

バスを降りて、船着き場へ向かった。船を待っている間、辺りを眺めた。どの建物にも窓がなかった。みんな言葉少なに船に乗り込んだ。船の中で作業着に着替え、現場に持っていく荷物をまとめた。

20分後船は大島の港に着いた。雨が降っていた。船から降りて雨の中、今晩お世話になる民宿のバスのお迎えを待っていた。バスは小さいので、1号車の人からバスで民宿へ向かった。2号車の私は待っている間、港の周辺の様子を眺めていた。

電柱は殆ど倒れていた。街灯は真ん中で折れ曲がっていたり、斜めに倒れていた。周りのお土産屋さんは3階まで窓がなかった。5ヶ月経った今も、撤去されずに残っている横倒しになった車が民家の庭にあった。つい最近まで2艘の結構大きな魚船が港に打ち上げられたまま残っていたのだが、島の有志の人たちで毎日少しずつ沖へひっぱっていったそうだ。

ようやく迎えに来たバスに乗り込み、民宿へ向かった。道中運転している民宿のオーナーが津波の時の様子を語ってくれた。津波によって暫くは島が完璧に2つに分断されたままだったらしい。本土にある石油コンビナートから火がついた浮遊物が島にたどり着き木々や家に燃え移り、森が三日三晩燃え続いたので一時は島が全焼するかもしれない、と島の人たちは覚悟をしていたそうだ。彼は漁師でもあり、漁船を持っていたが津波によって破壊されてしまい、宿泊客用に養殖していた牡蠣、ホタテ貝も流された、とおっしゃっていた。

民宿に到着して荷物を部屋へ持って行き、下へ降りてまたお迎えのバスを待った。そして最初の支援場所である水田へ向かった。港から500メートルほど離れた場所にある。その近くには流されて来たボートが打ち上げられていた。現場に到着してすぐテントを張り、ビニールシートを敷いて荷物を置いた。

水田では瓦礫を取り除き、分別してしてから後に重機が取り易いように道路脇に置く、という作業をした。後から合流した島の有志の人で始められた「おばか隊」の人たちの指導によって、それぞれ分担して作業を進めていった。私は瓦礫の分別をする係になった。分別は14項目に分かれていた。
1、可燃物
2、木材
3、不燃物、配管類
4、ガラス、ビン、陶器
5、電池
6、ふとん
7、電化製品、コード
8、鉄材、金属材
9、タイヤ
10、瓦、レンガ、石
11、土砂
12、石膏
13、危険物
14、大きい発砲スチロール
他に漁具類、思い出の品、貨幣は別において置いた。

水田にあった瓦礫はヘドロにまみれており、異臭を放っていた。降りしきる雨の中、作業は進められた。私は分別係だったので、汚れたのは手袋と服の袖口、足下だけだったが、水田の奥深く入っていた人たちは泥まみれになっていた。途中10分間の休憩があり、11時半に昼食のお弁当が届き、みんなで食事休憩を取った。食事の後テントを片付けて次の支援先である大島小学校へ向かった。